
授業てらすに入るまでのわたし
私が、授業てらすに入会したのは教員になって8年ほど経ったときだった。そのときの自分を振り返ると、研究授業や代表授業もたくさん経験させていただいていたことや学級経営等もそれなりにうまくやれていることもあり、なんとなく自分自身の授業には自信をもっていた。
しかし、今考えるとこの自信は「子どもを思い通りに動かしていることへの自信」であり、子どもたちが自分の思い描くように動いていたことに対して満足しているような状態だった。そして、私はそれを「=授業がうまい」と思い込んでいた。
授業てらすでの学び
そんな漠然とした自信をもったまま、授業てらすに入会した。授業てらすは全国のたくさん先生方とつながることができ、自分が望めば様々な学びの機会が手に入る。例えば、フォーマンセル。4人一組でチームを組み、授業についてみっちりと考えることができる。また、プロ講師の授業を見て学ぶこともできたり、授業公開の機会も数多くあったりする。
そうした機会の中で、様々なご意見をいただくうちに、自分自身が本当の意味で子どもたちのことを「見たり、聴いたり」出来ていなかったのだと気付いた。
私が、見ていた、聴いていたつもりだったのは、私のねらいにそった考えを表出している子だけであり、その周りにいる、他の多種多様な考えをもっている子には目が向いていなかったのではないか。もっというと、私のねらいにそった考えの子も、その子がどのようにしてその考えにたどり着いたのかという学びの過程などには目が向いていなかったのではないか。ということに気付かされた。
私の国語授業観の変容
そこで、私は今、子どもたちのことを今まで以上に「見ること、聴くこと」を大事にしている。
具体的には、その子の意見や考えといった表出してきた結果だけでなく、その子の学びの過程を大事にしている。
そのために、私が特に大切にしているのが「子どもの表情や体勢等も見ること」「学びの過程を聴くこと」である。
これまでの自分は、グループでの話し合いを見て回るときに「だれがどんな意見を書いているか」にしか注目がいっていなかった。そして、私が見つけたいい意見だけを取り上げていた。これは全体での話し合いでも同じである。だれかの発言に対して即時的に反応できる子だけを取り上げながら授業が進んでいた。
しかし、上記した二つのことを意識することで子どもたちの様々な様子が見えてきた。
グループでの活動の際、自分の意見を何度も書き直している子。誰かの発言に対してかすかに首をかしげている子。手のあげ方が自信なく、でも何かを伝えたいと思っている子。今まで下を向いていたのに、一つの発言をきっかけに顔がパッと上がる子。書いていることは短くても、その裏にはたくさんの思いをもっている子
こうした子どもたちの姿を見ること、聴くことができるようになってから、教師のねらいだけを大切にするのではなく、子どもたちの困り事を大切にしながら授業ができるようになってきたような気がする。
その結果、子どもたち同士も、お互いの意見を大切にし、困り事を大切にできるようになってきたのではないかと思っている。
